ここにある心通りに直接に文章書こう「死にたい」とかも 永井祐
はつなつや わがかりそめの恋さえも孤独というをしらしむるため 村木道彦
たまきわる ひとを愛せぬそのゆえにたれをも愛す星の数ほど 村木道彦
たんぽぽの黄をきざみたるごとき陽よときにばからしくなる人生は 村木道彦
電線を眺めてあの子に届かない念を送れば感電死する
我を今想う人無しということ死の瞬きの数を知らない
人口樹林にもあるから木漏れ日は お前の向きたい方向を向け
思想人であるとき、信ずる思想は絶対であり、恋愛に溺れているとき恋愛は絶対であるが、ひとたび詩人と呼ばれるとき、自己を通じての<生>の追求という大前提のもとに、思想も恋愛も全く相対的な意味しか持ちえなくなるだろう。
信ずるということばが、絶対を意味するならば、詩人であるとき、ひとは、思想も恋愛もいかなるものも信じてはいない。それらが所詮、自己のなによりもかけがえのない<生>の、その燃焼を演じてみせるための小道具でしかないことを、本能的に知っているからなのだ。ぼくらは詩人たらんことを志したものだ。「信じる」ということの危険と恐ろしさをよく自覚したいものだと思う。
-村木道彦
たまたまある会合で、ひとりの学生がこう言った。「ぼくは何も信じられないし、ぼく自身も信じられない。ただ在るだけなんだよな。それでいいんじゃないか。」
ぼくは彼の目を注視した。彼の眼は意外に澄んでいたが、次の瞬間ぼくはやや狼狽して視線をそらした、なぜならそこにぼく自身を見たような気がしたからだった。
何も信じられない。自分も信じられない。ただ在るだけだ。それでもぼくらは探す、ぼくらの足元から。ぼくらが手をふれることができるものから。
-村木道彦